『正しいかどうかなどどうだっていい 感じるべきは 楽しいかどうかだ』
このセリフは漫画家井上雄彦さんの作品「バガボンド」にて、伊藤一刀斎が主人公武蔵に言ったセリフだ。

『正しいかどうかなどどうだっていい 感じるべきは 楽しいかどうかだ』
人は「正しさ」に支配されていて、自分の思考だけでなく他人の正しさにも縛られている。
正しいことは素晴らしいことだ。
それは間違いない。
しかしその正しさは、誰かにとっては不正ともいえるし、自分の信念に反することもある。
誰かに教えられた正しさを全うするあまり、自分を殺していては意味がないし、
むしろ、
誰かに教えられた正しさが本当に正しいことなのかさえ危うい。
その正しさは、誰かの価値観で蓄積された経験であり財産であろうから、きっと間違いではないのだろう。
しかし、価値観は人それぞれでありそれこそが正しさなのではないだろうか。
誰かに教えられたことも
自分が経験したことも、
世の中にはたくさんの正しさがあるが、
そもそもその「正誤」の思考に縛られるよりも、『楽しさ』を感じるべきではないか、というのが件の伊藤一刀斎が武蔵に伝えたい言葉だろう。
この考え方にはもちろん賛否両論あっていいし、根こそぎ否定されても仕方のない極論だ。
過ちを犯してまで楽しさを追求してもいいのか、というモラルの問題がつきまとう。
そこまで広がってしまうと元も子もないが、大前提として【罪を犯すことは正しいことではない】を念頭においてほしい。
正しさに縛られるよりも、、、とはいえ、罪の深さももちろんあるが、人を殺したり、誰かを陥れたり、他人のものを盗んだり、なんていう古典的なことは言わずもがな正しいことではない。
おそらく一刀斎が言いたかったことは、
【『こうあるべき』という縛りを捨てて、自由に感じるままに生きなさい】
ということではないのかと、僕は思う。
かのブルース・リーも言っていた。
「Don’t think, feel.(考えるな、感じろ)」
「Be water(水になれ)」と。
心を空にして、水のように形なく。水になれ。
人の真似をせず、あこがれにとらわれず、アイデアにとらわれず、自分そのもので流れ続けよう、水のように。
ブルース・リー Be water my friend より抜粋
しかしこのブルース・リーの言葉は、彼が師と仰ぐ宮本武蔵が「五輪書」の中で書いた言葉を現代風に言い換えた言葉だろう。
奇しくも、漫画の中のように実際に一刀斎が武蔵に伝えたのかは定かでないが、宮本武蔵は自分が書いた『五輪書』の中で同様のことを言っている。
以下、宮本武蔵が書いたとされる「五輪書」では、
水を本として心も水になる也
水は方円のうつわものに随ひ
一滴と也さう海となる
水に碧潭の色有り
清き所を用ゐて一流の事を
此巻に書顕す也
https://kanmontime.com/tomita/be_water/ より抜粋
現代風に訳すと、
水を手本だと思って、心も水のようにしなさい
水は四角い器には四角く、丸い器には丸くなり、たった一滴からいずれは海にもなる
そして水は無色なのに青く深淵な色がある
そんな水の清らかさとしなやかさを用いながら、二天一流の戦い方のことをこの巻に書きあらわす
https://kanmontime.com/tomita/be_water/ より抜粋
とある。
宮本武蔵の言葉をブルース・リーがどのように解釈したかは不明だが、「Be water(水になれ)」と言っている以上「五輪書」第二巻「水の巻」を引用し自分の哲学に加えたことは明白である。
また「五輪書」第五巻「空の巻」ではこうも言っている。
心意二つの心をみがき、観見(かんけん)二つの眼を研ぎ、少しもくもりなく、まよひの雲の晴れたる所こそ、実の空(くう)としるべき也。
https://kanmontime.com/tomita/be_water/ より抜粋
心と意、観と見はそれぞれ『感じる』『考える』の意味だ。
どちらも磨いた上で、自分の心が感じることこそが正解なのかもしれない。
現代でも「好きなことだけして生きよう」のような言葉がささかれる瞬間もあった。
考えるより、感じること。
五感すべてを世の理(五行)とリンクして、自分の気持ちに正直に、自分が好きなこと楽しめることに集中することが人生においての正しさなのではないだろうか。
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