山あり谷ありの「谷」に注ぐ光|ひろまひろく#153【2013/07/23版】

自信をもって人生を楽しんでみる

これは今年の4月に参加したワークショップから得られたもの。それまでの僕は何に対しても臆病で、結果ばかりを気にした生き方をしていたと感じる。

臆病なのに結果に依存するとは矛盾していると思われるだろうが、つまりは嫌なことから目を背け、逃げて逃げて楽な方法で目的を遂行するといったような、非常にアンバランスな結果なのだがそれでも満足していた。

「人生終わり良ければすべて良し」とはよくいったものだが、途中の過程も大事なんじゃないかと最近特にそう思う。

段取りや準備をきちんとした上で結果が伴えば、目的を達成できた喜びは、それまでの何十倍もの効果が発揮されるのではないか。結果に対する伸び率も比べようもないほどのものを手にできるのではないか。

そんなことをあのワークショップでは教えられた気がする。

もがき苦しんで這い上がる

とにかく僕は自分の性格を結構把握していると思っている。強さよりも弱い部分を特に意識してしまう。

これは「引き寄せの法則」にはあまりよくないと記述されていたが、その反面弱い面を認識することで長所に活かすことができるとも書かれていた。ただ僕は、「認識する為に弱い部分にフォーカスする」ことを言い訳とし、常にそのマイナスな感情と共存している自分がとても嫌だと思っている。

精神的に後ろ向きになってくると僕は自分の身体を物理的に痛めつける傾向にある。

暴力的なことや生死に関わることをするわけではないが、例えばランニングや筋力トレーニングといった「身体に負荷をかける活動」で普段よりも厳しい設定をしてそれに臨む。それをすることでとてもスッキリするからだ。

僕の考えでは、マイナスな感情ほど内向きな仕事に取り組んでいる時に出てきやすく、外向きな仕事に取り組んでいる時はプラスの感情が芽生えやすいと感じる。気分転換で散歩に出るという行為も、あながち間違ってはいないのだろう。

僕には散歩の習慣はないので、それをランニングや筋トレで補っているわけだが、気分が乗らない時ほど自分に負荷をかけ、自分をいじめ抜いてやっつける。僕にとってはそれが一番手っ取り早く効果的なんだ。

学んだことを実践する高い壁

学生の頃から勉強嫌いで常に遊び呆けていた。その遊びすら将来何かの役に立つというものではなく、ただ時間を無駄に使ったものばかりだった。

35歳くらいからなんとなくこのままじゃいけないんだとぼんやり考え始める。だけれど、何をどうすればいいか分からず時は進む。

やがて人生に焦りを感じはじめた時くらいから、学習欲がふつふつと湧いてきた。それは言語や数学といったものではなく、シンプルに「人生とはなんだっけ」である。

自分が生きている意味や意義、これからのこと、次の世代に残せるものを真剣に考えるようになってから、無性にそれに関するものを学びたくなった。さらには社会に対しての自分の立ち位置も気にするようになる。世界の一員である以上、蚊帳の外にはいたくないし双眼鏡で眺めることもしたくない。

しかし学びとは時に残酷なものを見せつけてくれる。

最近は現実よりも、インターネットの世界の方が友達と呼べる人が多くいると感じる。その中には憧れる人や眩しく輝いている人もいる。あんな人になりたいなと、周りに目もくれず追いかけたくなる。

一方で人生に落胆し挫折しかけている人もいて、世界はこれでバランスとっているのかな?と冷ややかな感情を押し込めて傍観する。

自分の人生をなんとかしなくちゃ!と躍起になって取り組んでいると、そのうち同じように考えてる仲間や友人が現れてくることに喜びを感じるようになる。その友人たちもまた必死に努力していて、僕はその姿に何度も助けられた。

しかし、ある日気づいてしまった。

根本的にできる人とできない人がいることに。

恐ろしくなった。なぜなら僕こそができない人なんじゃないかって感じはじめたからだ。

何をやったってお前は変わらんよ

背中に嫌な汗が流れるのが分かった。胸の奥で嫌な焦りが流れ込んでくるのが分かった。

どう頑張っても越えられない高い壁がある

そうか、僕はできない人なのだ。だからこんな高い壁に挑戦する必要はないのだ。

すると、それまで頑張っていたもう一人の自分が言う。

ちょっと待て。そう考えるのは一番簡単で一番楽な結論だろう。もう努力なんてしなくていいのだから。だけどその努力を無駄にする気か?昔の自分に戻りたいのか?

努力したことは少なくとも結果として現れてるし実感もある。これからもその記憶は残っていくことだろう。だけれど、長い目でみた時にそのあまりにも高い壁が僕を威圧的に見下ろしている。無表情に、ただそこに存在している。

現実を見よ。今を見よ。

高い壁とはイコール結果だ。それに気づいた時、自分の学習能力の低さに怒りを覚える。自分でもわかっていた筈なのに。

人生とは、いい結果に導く為の途中の過程がもっとも大事なこと

「生きてる過程」が問題なのであって結果はあくまで「結果」でしかないのだ。その結果を自分で筋道立てて、コントロールすることに喜びを見出すものではないのか?

そうなんだ。自分の人生は自分でコントロールしているのだ。目の前にそびえている高い壁にあまりにも近づき過ぎてるからその威圧感に圧倒されているだけで、もっとうしろに下がって見たらいい。

世界一高いビルディングだって、都市を見下ろす山々だって距離をおけばなんてちっぽけなモノだと感じるだろう。その距離は果てしないものだとしても、終着点に達するまでの過程をどこまでのものにするかは自分で決めていいのだ。その過程を楽しめればそれでいいのだ。

いまを生きる

そこの一番大切な部分から目を背けてジャンボジェットで目的地に行ったとしても、墜落するのは目に見えている。のんびり脇道にそれながら、だけれど、自分の中の地図で見つけた「ルート俺」にまた戻りつつ歩いていけば確実に目的地には辿り着くだろう。

万が一そのルートが間違っていたと気付けば、また地図を広げてみればいい。方角なんてどうでもいい。あまりにも迷って谷底に着いてしまったって構わない。

「谷」に迷い込んだいまだからこそ見える何かが、きっとそこにはあるはずだから。

まずは頭上から差し込む光目指して這い上がろう。もがいて指先傷だらけになりながら地上に這い上がろう。

顔を上げたそのはるか先に、目的地が見えているのならそれでいいのではないか。

自信をもって途中の過程(=人生)を楽しみながら生きていくのも、まんざら悪くはないでしょう( ´ ▽ ` )ノ

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