自分にはない想いを受けとる大切さ|ひろまひろく#134【2013/02/07版】

ひろまひろく
持つべきものは何とやら。

故郷を離れ仕事に打ち込み、家族を養う立場になってくると友達と呼べる人間とはだんだん疎遠になってくる。

とても寂しいことなのだけれどこれが現実だ。

オトナになれば誰もが通る道となかば開き直って、家族さえそばにいてくれればそれで満足と、社会とはできるだけ距離を置くようになってくる。

家族以外でコミュニケーションの対象となるのが仕事上の付き合いだけになってくると、なんだかすべてにおいて、仮面をつけたまま上辺だけ取り繕って接することが当たり前のように思えてくる。

心からの声を聞いてくれるのは誰だ

家族と過ごすときでさえ仮面をつけてるような気がしている。子供の前では「父親」という仮面と「良き友人」という仮面だ。

奥さんの前でさえもたぶん仮面はつけたまま。

男は黙って耐え忍ぶ

みたいなのを美徳と勘違いしているのには気付いているのだけれど、弱いところを見せることができない。

第5のコミュニケーション対象

ぼくの世界は狭い。

家族、仕事、数少ない友人、一般社会。これがぼくの世界。いつだってそうだ。

物足りなさはあるものの、ある種それでもいいと思っていた。できることなら殻に閉じこもり自分の好きなことを黙々とやっていきたい。そちらのほうがよっぽど気が楽なのだ。

そう、いままではそうだった。

2011年の秋くらいからその傾向が変わってきた。仕事以外での新しい出会いが加速度的に増えてきた。

そのきっかけとなるのがSNSであり、行動に落とし込めるようになったのがブログだ。

つまり、いままでは家族、仕事、数少ない友人、一般社会がぼくのコミュニケーション対象だったのだが、もうひとつ「ネット上の友人」という対象ができあがった。

このネットの友人たちとは基本的に、SNSを介してお互いの信頼性を育んできたのだと思う。もちろん片思い的な友人もいるのだろうが、自分視点で考えると「友人」と呼んでいいレベルなのだ。

ネット上が社交の場であるから当然本体を知らない。もしかしたら性別さえ勘違いして会話させてもらっている人もいるのかもしれない。

でもそんなことは問題ではなく、自分が懇意にさせてもらっているTwitterやFacebookの友人たちは皆とても意識が高い人たちばかり。ぼくにとってはこれが問題なのだ。

カルチャーショックといってもいい。

異業種交流とはちょっと違って、下は中学生から(中には小学生もいるだろう)上は60代?70代?の方もいる。主婦の方や学生さんもいる。

全世代対象の交流会なのである。

どうよ。その中にいて刺激を受けないわけがないでしょう。

そして、そういった人たちは往々にしてブログを媒体にして自己表現・情報発信している。ブログを読ませてもらうとSNS上では掴みきれないその人の思いや趣味趣向を知ることができる。で、どんどんとその人のことが好きになってくる。

やがて必然的に会って話したい欲求が出てくるわけです。

ぼくはこの「ネット上の友人」を

第5のコミュニケーション対象

と呼ぶことにした。いま。

もちろんそれなりのTPOに合わせた「仮面」はつけていることでしょう。一応社会人なので。でも思うのは、自分が認めたこの人たちはみんな芯が熱くて同じ匂いがするんです。

話し込むうち無意識にテーブルの上に仮面を置いたことや、過ぎ行く時間があることさえにも気付かず、ただただ目をキラキラさせてお互いの想いをぶつけ合うのでしょう。


地元のファミレスで6時間もの時間をかけ、たった二人でブログ談義やブログのメンテナンス、そしてITの可能性を熱く語り合ったことを書きたかっただけでしたw

ちょー近所の @chatii0079 さん、遅くまでお付き合いくださりありがとうございました^^


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