小さき者の大きな意思に動かされる時|ひろまひろく#132【2013/01/26版】

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子供の行動、考え方にはぼくたち大人でさえ気付かされることが少なくない。

きっと幼稚園で風邪でも移されたのであろう五つになる次男の調子が朝から悪く、インフルエンザの疑いがではじめたことから妻は次男を連れて掛かりつけの医院へ行くことになった。

その間、長男・末娘の面倒を見る形で留守番をすることになるのだが、その一緒に過ごした一時間の間に貴重な体験をすることとなった。

揺るぎない意思の尊重

七つになる長男はさすがに周りの状況や相手の心理状態を察することができるようになってきた。

しかしまだ三つの末娘はあくまで自分主体であり、気に入らないことがあればそれを行動に示すことで、親や兄たちに伝える術を知っている。

ぼくや妻もまだ親になって八年目の、これからどんどん変化していく子供たちにきっと圧倒されていくであろう世代だ。

すでに長男は「少年」と呼ぶにふさわしく成熟してきており、時折頼りきってしまう部分もなくはない。しかしまだ親に甘えたいと思っているところも内には秘めているはずなので、そこを拒否する理由もない。

その点末娘は喜びと悲しみ両極端の表現しかできないわけで、私たちはその二つの感情の奥底に眠る深いもの(往々にして価値観のようなもの)を汲み取ることが必要となってくる。

彼女の遊び方はごく一般的と推察される「おままごと」や「人形あそび」が主体となる。もちろん絵を描いたり絵本を読んだりすることも好きであるが、眠気も覚めだんだん元気になってくるとよりアクティブな遊びをすることを望んでくる。

ぼくは平日自宅に居たとしても仕事部屋にこもりデスクワークをすることになるので、日中子供たちと過ごすことは休日以外あまりない。今回は子供たちの世話をする仕事が与えられたわけだから、当然彼らと過ごすことになった。

そこで末娘は、ここぞとばかりにぼくを彼女の「遊びの輪」へ誘ってくる。長男は末娘の気性の激しさを知っているから、我関せず、親娘を横目にしながらテレビゲームに興じている。

今回の遊びは「ポケモンのオモチャ遊び」と「おままごと」の二つが選ばれた。毎回その日に選択される遊びの基準は分からないが、きっと彼女なりの基準があるのだろう。

選ばれた二つのどちらか一方で遊ぶものと決めつけていたのだが、結局のところ彼女はその二つの遊びをミックスさせて遊ぶことを決めた。

決めたのだからきっと理由があるのだろう。しかし意味を解読するのは不可能だ。なぜなら彼女自身も分かっていないのだから。

ぼくはその二つ遊びを紐付けてストーリーを創り、一緒に遊ぶことにした。しかしどうだろう、ぼくの描いた脚本は彼女にとっては魅力のある内容ではなかったらしい。ことごとく拒否反応を示されてしまった。ここでも、彼女自身分かっていない理由がきっとあるのだろう。

よくよく考えてみると、共同作業している自覚はあるものの子供の遊びに対する耐性があまりないことから、知らずの内に保身に入ってしまったようである。

つまり、「ストレスを感じない程度の内容」で書かれた脚本を彼女に強要しようとしていたのだ。 納得するわけがない。

彼女にもある程度のプライドがあるだろうし、遊びの上でのルールを自分に課している面もある。もちろん無意識のままに。どう促したところで、譲らないところは断固譲らないのだ。三歳の幼女に四十を越えた中年が翻弄される滑稽な瞬間だ。

「わたしも全力で遊ぶのだから、パパも全力で相手して」

彼女の言葉がこう聞こえた。もちろん実際に発した言葉ではない。

大人は長い経験と習慣の中で、知らずの内に精神的な抑制をしつつ行動することを植え付けられてきた。言い方を変えれば「手の抜きどころ」である。
仕事をする上では大切なテクニックのひとつと理解しているが、そんなものが子供に通用するわけがなかった。彼らは「いま目の前にあるもの」だけにしか文字通り目に入ってないのだから。

余力を残しつつ行動することなど出来ないし、しようともしない。ただ目前の問題に全力で向かう術しか知らないのである。

テクニックで塗り固められた都合のいい大人の意見など、これからすべてのアイデンティティを賭けて取り組む彼女に信念の太刀打ちできるはずもないだろう。

良くも悪くも見習うべきもの

結局二つの遊びを織り交ぜ彼女自身が描いた脚本に沿うことで、末娘の意思を尊重することにした。

どうだろう。大げさに聞こえるだろうか。気にする必要のない事案だろうか。

あのまま都合のいい立ち振る舞いをして自分のストレスを軽減し、半ば強引に彼女の脚本を塗り替えるべきであっただろうか。

ぼくの選択は間違っていたのだろうか。 正直なところ、なにが正解かなんていまのぼくには分からない。

分からない部分はあるが、自分で納得した判断ではあった。彼女もそれなりに満足してくれていたようだったのだから、少なくともあの場の判断は間違っていなかったと信じたい。

年を重ねてくると未来のことを考えバランスを考え、適切な力配分を計算して行動するようになる。

手を抜いているということではなく、効率的・能率的なテクニックに過ぎないのではあるが、一連の子供の行動を見ていると何か腑に落ちない部分があることに気付かされる。

このままでいいのだろうかと。

彼ら彼女らのように、ひとつのことに全力を出して欲求を満たすことも必要なものではないのだろうかと考えさせられる。

親になって八年目。
まだまだ勉強すること、子供たちに教えられることたくさんあるなぁと感じた一日だった。


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